袖振り合うも多生の縁(そでふりあうもたしょうのえん)

 静かな秋の夕暮れ、駅のホームに一人の若い女性、恵子(けいこ)が立っていた。仕事で失敗し、上司に叱られ、心が疲れ果てていた彼女は、ぼんやりと遠くを見つめていた。次に来る電車に乗るつもりでいたが、その気力さえ失っていた。


そのとき、隣に立っていた男性の袖が風に揺れ、ふと恵子の袖に触れた。その瞬間、恵子はハッと現実に引き戻され、思わずその男性の顔を見た。彼はにっこりと微笑み、「すみません」と軽く頭を下げた。


恵子も自然と微笑み返し、「いえ、大丈夫です」と答えた。そんな些細なやり取りが、彼女の心に小さな灯火をともした。


その男性、佐藤(さとう)は優しい目をした中年のサラリーマンだった。彼は恵子の顔に何か不安の影を感じたのか、少し躊躇しながら話しかけた。「お仕事、大変だったんですか?」


恵子は少し驚いたが、なぜか心を開いてしまった。「はい、ちょっと…いろいろありまして。」普段なら他人に悩みを打ち明けることはなかったが、その日ばかりは誰かに話したかったのかもしれない。


佐藤はうなずきながら、「そういう時もありますよね。でも、こんな風に偶然誰かと話すことで、少しは楽になることもあります」と優しく言った。


その言葉に、恵子は不思議と心が軽くなるのを感じた。彼女は短い間だったが、自分の悩みを打ち明け、話しながら少しずつ自分を取り戻していった。


電車がホームに滑り込んできた。二人は同じ電車に乗り込み、しばらく無言で過ごしたが、その静寂は心地よいものだった。次の駅で佐藤が降りるとき、彼は「どうか頑張ってくださいね」と一言だけ残して、笑顔で去って行った。


恵子はその後も仕事で困難に直面することがあったが、あの日、袖が触れ合った佐藤との出会いを思い出すたびに、心に勇気が湧いてきた。彼女は「あの人のように、他人に少しの優しさを与えられる人になりたい」と思い始めるようになった。


やがて恵子は、職場での人間関係が改善し、自信を取り戻すことができた。そして、あの日の出会いが自分にとってどれほど大きな意味を持っていたのかを噛みしめるようになった。


「袖振り合うも多生の縁」とは、まさにこのことだろう。ほんの一瞬の出会いが、人生に深い影響を与えることがある。恵子はそのことを心に刻み、これからも前向きに生きていこうと決意した。




ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

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