酸いも甘いも噛み分けた(すいもあまいもかみわけた)

 酸いも甘いも噛み分けた


中村智子は、60歳を迎えた。定年を間近に控えた彼女は、長年務めた会社でのキャリアに誇りを持ちながらも、どこか孤独を感じていた。仕事に没頭してきたため、家族との時間は少なく、子供たちは独立し、夫とも疎遠になっていた。だが、振り返れば、彼女は数えきれないほどの酸いも甘いも噛み分けてきた。仕事での成功や失敗、同僚との軋轢、そして時に味わう充実感。すべてが彼女の人生の一部だった。


ある日、若手社員の美咲が智子に声をかけてきた。


「中村さん、少し相談があるんですけど、いいですか?」


智子はうなずき、カフェに二人で向かった。美咲はまだ20代半ばで、入社して間もないが、才能があり仕事に熱心だった。だが、最近はストレスを感じているのか、顔に疲れが見える。


「実は…仕事のことで悩んでいて。上司との関係がうまくいかなくて、どう対処すればいいのかわからないんです」


美咲の言葉を聞きながら、智子はかつての自分を思い出していた。若い頃、自分も同じように上司との意見の食い違いに悩み、何度も苦い経験をしてきた。


「美咲さん、あなたも今、酸いも甘いも噛み分ける時期に来てるんだね」と智子は微笑んだ。


「酸いも甘いも…ですか?」


「そうよ。人生には苦しい時期もあれば、楽しい時期もある。どちらも経験しながら、私たちは成長していくの。上司との関係もうまくいかないことがあるけれど、避けてばかりではダメ。少しずつ相手の考えを理解して、自分の意見も柔軟に伝えていくことが大事なの」


美咲はうつむいて考え込んでいたが、やがて顔を上げて言った。


「でも、中村さんはどうやってそんなに強くなれたんですか?」


智子はしばらく考えてから答えた。


「私は決して強いわけじゃない。ただ、長い間、いろんな経験を積んできただけ。それが仕事だけじゃなくて、家族や友人との関係も含めてね。失敗もたくさんしたけど、その失敗から学んだことが、私を少しずつ強くしてくれたのかもしれないわ。美咲さんも、今は大変かもしれないけど、いつかきっと笑って振り返る時が来る。焦らずに、一つずつ乗り越えていけばいいのよ」


美咲は智子の言葉に頷き、少し安心したような表情を見せた。


「ありがとうございます、中村さん。私ももっと頑張ってみます」


その夜、智子は一人で帰り道を歩きながら、ふと空を見上げた。人生は長い道のりで、決して楽しいことばかりではなかった。しかし、酸いも甘いも噛み分けながら、自分なりに歩んできた道を後悔してはいない。これからの人生も、きっと同じように、苦いことも甘いこともあるだろう。


「でも、それが人生ってものよね」と、智子は微笑みながら、自分自身にそう言い聞かせた。




ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

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