知らぬが仏(しらぬがほとけ)

 知らぬが仏


佐藤美佳は30代半ば、都心の大手企業に勤めるキャリアウーマンだった。長年の努力が実り、ついに課長に昇進し、仕事も順調そのもの。私生活でも、3年付き合っている恋人・達也との結婚話が進んでおり、彼女の人生は輝かしい未来が約束されているかのように思えた。


ある日、同僚の由紀子が突然、「聞いた?達也さん、最近夜遅くまで残業が多いみたいだけど、大丈夫?」と尋ねてきた。美佳は何も心配していなかった。達也は仕事熱心だし、結婚に向けての準備もあるのだから、少し忙しくなっているだけだと信じていた。


「うん、大丈夫よ。達也は忙しいの、知ってるから。」


軽く流した美佳だったが、ふとした瞬間に不安が頭をよぎった。達也は最近、少し様子が変わった気がする。連絡が遅くなったり、週末の約束が急にキャンセルされたりすることが増えた。だが、美佳はあえて深く考えないようにしていた。彼との時間は大切で、余計な疑念で関係を壊したくないという気持ちが強かったのだ。


しかし、由紀子の言葉が心に引っかかり、ある晩、美佳は達也のスマートフォンを見てしまう。そこで彼女が目にしたのは、達也と別の女性との親密なメッセージだった。内容は明らかにただの友達ではなく、二人が頻繁に会っていることが分かるものだった。


美佳の胸は締め付けられるように痛んだ。まさか…達也が裏切っているなんて。彼の誠実さを信じていた自分が、突然、足元をすくわれたような気がした。


だが、数日後、美佳は思い直した。達也との関係を壊すことは簡単だが、それは本当に自分が望んでいることだろうか。もし何も知らなければ、幸せな日々が続いていたのではないか?知らなければ、自分は何も苦しまずに済んだのだ。


「知らぬが仏…って、こういうことなのね。」


彼女は心の中でつぶやいた。達也に何も言わず、そのままの日常を続けることを選んだ。真実を知ることが必ずしも幸せをもたらすとは限らない。知らないことで、彼女は達也との関係を守り、穏やかな日常を維持することができると信じたのだ。


美佳は達也の裏切りを見なかったことにし、彼との日々を淡々と過ごしていく。しかし、その決断は彼女にとって本当に「幸せ」なのか、それともただ現実から目を背けているだけなのかは、彼女自身も分からなかった。




ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

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