食指が動く(しょくしがうごく)

 食指が動く


山本修一は、地方の小さな町で暮らしている普通の会社員だった。日々のルーチンワークに追われ、特別な趣味もなく、退屈な日常を送っていた。休日も特に出かけることはなく、家でテレビを見たり、スマホをいじったりするだけの時間が過ぎていく。


ある日、彼は久しぶりに地元の商店街をぶらぶらと歩いていた。最近オープンしたばかりのカフェがあるという噂を聞き、少しだけ興味を持って立ち寄ってみることにした。


そのカフェは、落ち着いた雰囲気で、店内には柔らかいジャズが流れていた。手作り感のある木製のテーブルや、壁に掛けられたアート作品が独特の温かみを醸し出している。修一は、カウンターに座り、メニューを眺めた。


その時、ある一品が彼の目に留まった。「自家製ベリータルト」。タルトの写真は、サクサクの生地に色鮮やかなベリーがたっぷりと盛られており、見るだけで食欲をそそるものだった。


「これ、頼んでみようかな…」


修一の心の中で、久しく感じていなかった感覚がふと湧き上がってきた。それは、何かに対する強い欲求や期待感だった。日々の生活で、彼はいつの間にか自分の欲望を抑えて生きてきたが、このタルトを見た瞬間、彼の「食指が動いた」。


注文を済ませ、待っている間、修一は思った。「最近、こんな風に何かを欲しいと感じたことがあっただろうか?」。日常の中で、彼はただ義務的に物事をこなしているだけで、心から何かに惹かれることがなくなっていたのだ。


やがて、タルトが運ばれてきた。ひと口食べると、甘酸っぱいベリーの風味が口いっぱいに広がり、サクサクとした生地の食感が心地よい。思わず笑みがこぼれる。


「うまい…」


その一言が、自然と口から漏れた。小さな喜びだったが、彼にとっては特別な瞬間だった。タルトを食べながら、彼はふと思った。「こんな小さなことで、こんなにも満たされることがあるのか」。


修一は、それからというもの、少しずつ自分の心の声に耳を傾けるようになった。何かに対して興味を持ったり、やりたいと思ったことに対して、素直に動くことの大切さを感じるようになったのだ。


そして彼は、自分の人生がまた少しずつ色づいていくのを感じていた。今まではただ無味乾燥な日常だったが、こうして「食指が動く」瞬間を大切にすることで、日々が少しずつ輝きを増していった。




ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

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