鹿を逐う者は山を見ず(しかをおうものはやまをみず)
「焦点の先」
佐藤は新進気鋭の若手営業マンとして、会社で頭角を現していた。彼は常に数字を追いかけ、目の前の売り上げ目標を達成するために全力を注いでいた。今月のノルマもあと少しで達成できる。そう思うと、彼の足取りは自然と速くなり、呼吸も高鳴る。
その日、佐藤は大手クライアントとの契約をまとめるため、地方の工場まで出張に出かけた。契約が成立すれば、今期のトップ営業マンとして表彰されるだろう。彼はそのことばかりを考えていた。成功を手にした自分の姿、同僚たちの賞賛、そして昇進への道が開かれる瞬間――。
クライアントとの打ち合わせはスムーズに進んでいた。しかし、彼はあまりに契約成立に焦りすぎて、相手の懸念や要望を聞き流していた。彼の目には「契約書にサインをもらう」ことしか映っていなかったのだ。
「契約を急がず、もう少し考えさせてほしい」とクライアントが言ったとき、佐藤は焦燥感に駆られた。今月中に結果を出さなければ、全てが水の泡になってしまう。彼はさらに契約を迫り、相手の話を遮ってしまった。
「契約を急ぐあまり、こちらの事情を全く聞いてもらえないようですね。」クライアントは眉をひそめ、不機嫌そうに言った。
その言葉に、佐藤は初めて自分の焦りが相手に伝わってしまったことを悟った。だが、時すでに遅し。クライアントは契約を見直すと言い残し、会議はあっけなく終わった。
帰り道、佐藤は重い気持ちで車を走らせていた。契約を急ぐあまり、大事なことを見落としていた自分に気づいたのだ。目の前の「鹿」を追いかけるあまり、広い「山」――つまり、全体の関係性や信頼の構築を見失っていたのだ。
会社に戻ると、今月の営業成績はぎりぎりノルマに届かなかった。トップ営業マンの称号も、昇進の機会も、すべてが遠のいてしまった。しかし、佐藤はそのことを不思議と悔やむ気持ちはなかった。むしろ、失ったのは目の前のチャンスだけでなく、もっと大きな視野や信頼だったことに気づいたからだ。
「鹿を逐う者は山を見ず――これからは、もっと広く周りを見るようにしよう。」
佐藤はその日から、売り上げや数字だけではなく、クライアントとの長期的な関係を大切にすることを心に決めた。そして少しずつ、彼の評価はまた上がり始めた。次に目標を追うとき、彼は全体の山を見ながら、バランスの取れた営業を心がけるようになっていった。
ことわざから小説を執筆 #田記正規 #読み方
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