去る者は追わず(さるものはおわず)
「新しい風」
春の風が優しく街を包み込む午後、彩子はカフェの窓から外を見つめていた。東京の喧騒が、遠くから聞こえるように思えた。彼女の前には、メッセージアプリの画面が開かれたままだが、そこにある名前に指を滑らせることはない。
「もう一年か…」
彼女は小さくつぶやき、コーヒーを一口飲んだ。彼との別れからちょうど一年が経とうとしていた。付き合い始めた当初は、互いに深く愛し合い、毎日のように連絡を取り合っていた。だが、彼の仕事が忙しくなるにつれて、少しずつ二人の間には距離ができ始めた。
彼女は最初、その距離を埋めようと努力した。連絡が減っても、彼の仕事が終わるのを待ち、デートの計画を立てたり、サプライズを用意したりした。だが、次第に彼の態度は冷たくなり、最後には「もっと自分の時間が欲しい」という理由で別れを告げられた。
あの時、彩子は必死に彼を引き止めようとした。「私がもっと理解すれば」「もう少し我慢すれば、また元に戻れるはず」と信じていた。しかし、彼は去った。何の未練もないかのように、ただ静かに彼女の前から姿を消した。
それからの数ヶ月間、彩子はその痛みと向き合った。彼のことを思い出すたびに、心の中にぽっかりと空いた穴を感じた。しかし、次第に彼女は気づき始めた。彼を追いかけ続けることは、自分をさらに傷つけるだけだということに。去る者を追っても、戻ってくることはない。むしろ、その執着が自分自身を縛りつけ、前に進むことを妨げているのだと。
そうして、彼女は決断した。もう彼を追わない。彼のいない人生を、自分のものとして生きていくことを。
今日、彩子はようやくその決意を実行に移す日だ。彼の名前を削除するために、アプリを開いた。しかし、削除することが今ではそれほど大きなことに感じられなくなっていた。彼女はもう、彼に縛られていない。
「去る者は追わず…か」
彩子は小さく笑みを浮かべ、彼の名前を削除し、スマホを閉じた。その瞬間、彼女の心に新しい風が吹き込んだ。街の音が一層鮮やかに聞こえる。去っていく者には執着しない。それは、次にやってくる新しい何かを受け入れるための大切な一歩だと彼女は感じた。
ことわざから小説を執筆 #田記正規 #読み方
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