飼い犬に手を噛まれる
短編小説『飼い犬に手を噛まれる』
古びたバーのカウンターに、重たいグラスが置かれた。氷が揺れ、静かに溶けていく。
「……結局、そういうことか。」
佐伯はゆっくりとウイスキーを喉に流し込み、目の前の男を見つめた。
「すまない、佐伯さん。」
頭を下げる男――篠田は、かつて佐伯が拾い、育ててきた後輩だった。場末の金融会社で、右も左も分からなかった篠田を、佐伯は手取り足取り教えた。取り立てのコツ、カモの見分け方、裏の仕事の流儀――すべて叩き込んできた。
「“すまない”で済む話じゃねえよなぁ?」
佐伯は鼻で笑った。
篠田は、佐伯の最大の顧客を横取りした。それだけじゃない。ライバル会社と手を組み、佐伯を会社から追い出そうとしていることも知っている。
「お前がここまでやれるようになったのは、誰のおかげだ?」
「……佐伯さんのおかげです。」
「だったら、なんでこんなことをした?」
篠田はゆっくりと顔を上げ、微かに笑った。
「佐伯さんみたいになりたくなかったんです。」
その一言に、佐伯は苦笑するしかなかった。
「そうか……飼い犬に手を噛まれたってわけか。」
静寂が二人の間を支配した。バーの奥でジャズが流れている。
佐伯はグラスを置き、立ち上がった。
「お前、これから苦労するぞ。」
「覚悟はできています。」
「……なら、好きにしろ。」
佐伯は振り返らずにバーを後にした。外の夜風がやけに冷たく感じた。
背後で篠田がグラスを手に取る音が聞こえたが、もう振り返ることはなかった。
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