投稿

10月, 2024の投稿を表示しています

子は三界の首枷(こはさんがいのくびかせ)

 三枝(さえ)は、30代半ばのシングルマザーで、5歳になる息子・大輔を育てていた。彼女は、家庭と仕事を両立させるため、昼夜問わず奮闘していたが、ふとした時に心の中で「子は三界の首枷」ということわざを思い出してはため息をついていた。 子どもの存在が縛りになるわけではないが、将来の不安や責任の重さを感じる時、この言葉の意味が身にしみるようだった。友人たちが自由に旅行を楽しんでいるのを聞いたり、仕事に全力で打ち込む同僚たちを見たりするたび、三枝は自分の「自由」が失われているように感じてしまうのだった。 ある日、大輔が熱を出した。いつも通り出勤する予定だったが、彼の熱が下がらず、三枝は急きょ仕事を休むことにした。会社に電話を入れると、上司から嫌味混じりの言葉が返ってきた。「大輔、こんな大事な時にどうして熱なんか…」と心の中で愚痴りつつも、懸命に看病を続けた。 数日後、病み上がりの大輔が元気に走り回る姿を見た三枝は、彼が母親にしか見せない無邪気な笑顔を浮かべて「おかあさん、いつもありがとう!」と言った。三枝の心の奥にあった「首枷」と感じていた重みが、少し軽くなったように感じられた。その瞬間、自由の代わりに得たものの価値が、何にも代えがたいものだと感じられた。 三枝は静かに微笑み、これからも頑張ろうと心に誓った。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

田作の歯軋り(ごまめのはぎしり)

 陽一は小さな町工場の職人で、日々黙々と自分の仕事に取り組んでいた。彼の技術は確かだったが、会社の規模も影響し、大手と比べて受注が少ない状況が続いていた。そんな中、町全体で開催される製品発表会の知らせが届いた。陽一は自分の腕を試したいと思い、新たに工夫を凝らした製品を準備することにした。 発表会当日、陽一の工場のブースは大きな企業に囲まれ、どこか陰に追いやられたように見えた。展示を始めたものの、大勢の人々は目の前の大手の派手なブースに惹きつけられ、陽一の工場を覗く人はまばらだった。彼の胸に「田作の歯軋り」という言葉が浮かんだ。努力しても小さな存在であるがゆえに、その声は届かず、ひたすら歯軋りするしかない己の姿が、まさにこの言葉に重なる気がした。 しかし陽一は、黙々と製品を磨き続けた。午後になって、ふと一人の若い技術者が彼のブースに足を止め、興味深そうに製品を見始めた。彼は手に取り、その技術力の高さに驚いた表情を浮かべ、「これ、すごいですね。よかったら詳しく教えてください」と陽一に話しかけた。 小さな声でも、それを聞き入れてくれる人がいる限り、陽一の技術と信念は伝わるのだと感じた。翌日、大手との競争においても、真摯に続けてきた職人としての矜持を胸に、また新たな一歩を踏み出す決意を固めた陽一だった。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

子ゆえの闇(こゆえのやみ)

 雪が降り積もる冬の夜、加代子はふと、自分の息子・拓也の部屋を訪れた。拓也は受験を控えており、日夜机に向かって勉強に励んでいるように見えていた。しかし最近、どこか上の空のような態度が目立つようになり、彼が本当に勉強に集中しているのか気になっていたのだ。 「拓也、ちゃんと勉強しているのかい?」と部屋に入ると、彼は一瞬驚いた表情を見せ、机の上の何かを急いで隠した。その動きに不信感を覚えた加代子は、「それ、何?」と尋ねたが、拓也は「別に、大したものじゃない」と目を逸らして答えた。 加代子は、親として子供を信じたい気持ちと、何か隠しているのではないかという疑念との間で揺れた。息子に無理に聞き出すのもためらわれたが、放っておくわけにもいかない。もしかしたら何か悩んでいるのかもしれないという思いが募る。 夜も更け、加代子は一人で考え込んでしまった。拓也を問い詰めたい気持ちと、彼のプライバシーを尊重したい気持ちが、心の中でせめぎ合っている。「子ゆえの闇」という言葉が頭をよぎる。愛するがゆえに知りたい、しかし知ることで親子の関係が壊れるかもしれない――。そんな葛藤に苦しむ加代子は、結局その夜は問い詰めずにそっと部屋を出ることにした。 次の日の朝、拓也は何事もなかったかのように元気に学校へ行った。彼の笑顔を見て、加代子は自分が思い過ごしだったのかもしれないと少し安心したが、彼の心の闇はまだわからないままのような気がした。それでも、いつか拓也が自分のことを話してくれる日を待とうと、加代子は静かに決心するのだった。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

転ばぬ先の杖(ころばぬさきのつえ)

 小さな田舎町に住む絵里子は、慎重で知られる性格だった。何事も計画を立て、予防策を講じるのが彼女の信条で、家族や友人からは「転ばぬ先の杖」として親しまれていた。 ある日、絵里子は友人たちと山にハイキングに行くことになった。山道は険しく、滑りやすい場所も多いことで知られていたため、絵里子は事前にしっかり準備をした。登山靴に滑り止め、救急キット、さらには悪天候用のレインコートまで、かばんの中は予防策でぎっしりだった。 一方、友人たちは「天気は晴れだし、大丈夫だよ」と楽観的で、軽装で山に向かった。最初は順調だったが、頂上近くで急に霧が立ちこめ、雨が降り始めた。足元がぬかるんで転倒する人が続出したが、準備万端の絵里子はしっかりと杖をつき、足元を確かめながら進むことで無事に乗り越えることができた。 山を降りた友人たちはすっかり疲れ果て、泥だらけだった。そんな友人を見て、絵里子は少し微笑んで言った。「やっぱり“転ばぬ先の杖”って大事だね」。友人たちは少し照れ笑いを浮かべ、「今度は私たちもちゃんと準備するよ」と誓ったのだった。 その日以来、友人たちはどんな小さなことでも、「絵里子みたいに転ばぬ先の杖を持とう」と話し合うようになった。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

塞翁が馬(さいおうがうま)

 辺境の小さな村に、慎重な性格の男、栄次が住んでいた。栄次は何事にも計画を立て、リスクを避けて生きることを信条としていた。 ある日、栄次の隣村の商人が、希少な薬草がたくさん取れる場所を見つけたと噂話を持ちかけてきた。その薬草は非常に高値で取引されるもので、栄次は少しばかり興味を持ったが、詳しく調べずに動くのは不安だった。 それから数日後、隣村の商人が他の村人を集め、薬草採集を開始すると、噂通り豊かな収穫を得たのだと見せびらかした。村人たちは栄次を笑い、「機会を逃したな」とからかった。 「塞翁が馬さ」と栄次は心の中で呟き、笑って受け流した。だが内心は少し動揺していた。自分がいつも慎重すぎるのか、今更ながら考え直し始めたのである。 その夜、突然の嵐が吹き荒れ、薬草の山を包む岩山が崩れ落ちた。隣村の商人たちは危うく命を落としかけ、採集していた薬草の大半も土砂に埋まってしまった。命拾いした商人は、これに懲りて採集を諦めて村へ戻っていった。 この出来事を聞いた村人たちは、今度は逆に栄次を称え、「やはりお前の判断は正しかった」と褒めた。しかし、栄次は首を横に振り、ただ「塞翁が馬さ」とだけ答えた ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

先んずれば人を制す

 「先んずれば人を制す(さきんずればひとをせいす)」とは、「他人よりも先に行動すれば、主導権を握ることができる」という意味のことわざです。先手を打つことで、状況を有利に進めたり、相手の出方を制御したりできることを教えており、準備や行動の速さの重要性を説いています。 この言葉には、「チャンスを掴むには決断力が重要で、ためらわずに行動する者が優位に立てる」という教訓も含まれています。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

策士策に溺れる

 「策士策に溺れる(さくしさくにおぼれる)」は、「巧妙な策略を考える人ほど、かえって自分の策に振り回されて失敗することがある」という意味のことわざです。たとえ計略に長けた者であっても、策にこだわりすぎたり、過信したりすると、かえってその策によって自らを苦境に陥れることがある、という教訓です。 このことわざの背景には、「策を弄する者は、時にその策が予期せぬ方向に作用してしまう」という戒めが含まれています。柔軟な発想と冷静な判断を持つことが重要で、状況に応じて策を見直し、自己を見失わないことが大切だと教えてくれる言葉です。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

酒は百薬の長(さけはひゃくやくのちょう)

 「酒の味」 秋の夜、仕事帰りに常連の居酒屋に寄った中村啓一は、カウンターに座りながら静かに杯を傾けていた。彼にとって、仕事終わりの一杯は何よりも楽しみだった。特にこの店の地酒は、どれも絶品で、疲れた心と体をゆっくりと癒してくれる。 「今日もお疲れさん、啓一さん。」 店主の大塚は、にこやかに声をかけながら、啓一にお猪口を差し出した。啓一は微笑みながら、その酒を受け取った。 「いや、これがないと一日が終わらないよ。」 啓一は酒を口に含むと、ほんのりとした甘みと、深い香りが口中に広がった。仕事のストレスも一瞬にして消え去るような感覚だ。 「酒は百薬の長って言うけど、本当にそうだよなあ。これだけで元気が出る。」 大塚は笑いながら、カウンターを拭いていた。 「まあ、適度に飲んでこその話だけどな。飲みすぎたら薬どころか毒だ。」 その言葉に、啓一は少しばかり顔をしかめた。最近は、つい飲みすぎる日が増えてきていたからだ。仕事のストレスが増えるにつれて、酒の量も増え、家に帰る頃には酔い潰れて寝てしまうことが多くなっていた。翌朝には後悔しながらも、また同じことを繰り返してしまう自分がいた。 ある日、啓一の同僚である田中が突然倒れ、病院に運ばれたという知らせが職場に届いた。原因は過労と飲酒の習慣による肝臓の疾患だった。田中も啓一と同じように、ストレス解消に酒を頼っていたが、それが彼の体を蝕んでいた。 「俺も、ああなってしまうのかもしれない…」 田中のことを思い出しながら、啓一は酒を口に運んだが、その味は以前のように美味しく感じなかった。酒は確かに百薬の長だ。しかし、それは適度に飲む限りの話だと、啓一は痛感した。 翌日、啓一は決心をした。飲みすぎず、楽しむ程度に抑えよう。仕事が終わったら必ず酒を飲むという習慣を少しずつ見直し、他の方法でリラックスすることも試してみることにした。 居酒屋で大塚と話しながら飲む一杯は、相変わらず楽しかった。しかし、それはあくまで「一杯」で止めるようになった。酒の味をじっくり楽しみながら、過剰に頼らない生活を送り始めた啓一は、心身ともに以前よりも健康で、活力に満ちている自分を感じるようになった。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

五月の鯉の吹流し(さつきのこいのふきながし)

 「中身のない自信」 佐藤陽介は、誰もが羨むような外見と経歴を持つ青年だった。大学は名門、見た目も整っており、スーツを着ればまるで雑誌のモデルのようだ。周囲の人々は彼を「成功者」として扱い、彼自身もその評価に酔いしれていた。 就職活動では、企業からのオファーが次々と舞い込んだ。彼は自分の市場価値を確信し、特に努力することなく内定を勝ち取った。新卒で入社した大手商社でも、最初はその華やかな経歴と堂々とした態度で、上司や同僚の注目を集めた。 だが、仕事が始まるとすぐに問題が表面化した。陽介は基本的な業務スキルが欠けていたのだ。報告書の書き方やデータの分析方法、さらには簡単なコミュニケーションさえも、彼は満足にこなすことができなかった。会議では自信満々に意見を述べるものの、内容は表面的で具体性に欠けていた。 「彼は見た目だけだな…」 陰口が社内で囁かれるようになった。表向きは優雅で洗練されているが、中身が伴わないという評価が広まっていった。陽介自身もそれに気づき始めたが、彼はそれを認めたくなかった。自分は「選ばれた人間」だと思い込んでいたからだ。 ある日、大きなプロジェクトを任された陽介は、さらにそのギャップに苦しむことになった。プロジェクトは思うように進まず、会議では曖昧な発言が増え、上司からの質問にも適切に答えることができなかった。チームメンバーも彼に対して不信感を抱き始め、ついにはプロジェクトが頓挫してしまった。 その夜、陽介は一人オフィスに残り、ふと窓の外を眺めた。5月の夜風に揺れる鯉のぼりが目に入った。その瞬間、自分がその「鯉の吹流し」のように、外見だけは立派だが中身のない存在であることに気づいた。 「俺は、ただの見せかけだったのか…」 彼はその事実を受け入れるしかなかった。自分を過信し、努力を怠ってきた結果が今の状況を生んでいたのだ。陽介はそこで初めて、本当に自分が成長するためには、内面を鍛える必要があることを理解した。 翌日から、彼は態度を一変させた。小さな仕事にも真剣に取り組み、わからないことは素直に聞くようになった。時間はかかったが、やがて同僚たちも彼の変化を感じ始め、再び信頼を寄せるようになった。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

猿も木から落ちる(さるもきからおちる)

 「完璧主義者の失敗」 渡辺修二は、自他ともに認める完璧主義者だった。職場ではどんな仕事も完璧にこなし、細かいところまで気を配り、部下からも上司からも信頼されていた。誰もが「渡辺さんに任せておけば安心だ」と口にする。ミスを一度もしない彼は、周囲からは尊敬の対象であり、誰もがその姿に憧れていた。 そんな渡辺にとって、仕事でのミスはあり得ないことだった。だからこそ、いつも自分に厳しく、どんなに小さなタスクでも全力で取り組んでいた。完璧であることこそが、自分の存在意義だと感じていたからだ。 ある日、新しいプロジェクトのリーダーに任命された渡辺は、いつも以上に気を引き締めていた。プロジェクトは大規模で、ミスが許されないものだった。彼は何度も計画書を見直し、部下たちの作業も細かくチェックした。だが、どこかで疲れが蓄積していたのかもしれない。 納期まで残りわずかとなった夜、彼は最終確認を終え、安堵の息をついた。これで完璧だと思い、家に帰ろうとしたその瞬間、上司からの電話が鳴った。 「渡辺くん、今すぐ確認してほしいんだが、君が担当した部分に誤りがあるようだ」 渡辺の心臓が一瞬止まるかのように感じた。自分が?誤り?信じられない思いで、すぐにデータを確認すると、確かに自分が入力した数字が間違っていた。しかも、そのミスはプロジェクト全体に影響を与える大きなものだった。 「どうして…?」彼は呆然とした。これまで完璧にこなしてきた自分が、こんな初歩的なミスを犯すなんて。 翌日、修正作業に追われながら、渡辺は初めて自分の無理を認めざるを得なかった。完璧であることに執着しすぎて、自分を追い込みすぎていたのだ。 プロジェクトは無事に終わったが、渡辺は自分に対する自信を少し失った。それでも、その経験から得た教訓があった。 「猿も木から落ちるってことか…」 彼は自嘲気味に呟いた。どんなに優れた人間でも、時には失敗する。大切なのは、その失敗をどう乗り越え、次にどう活かすかだと気づいたのだった。これからは、自分に対しても他人に対しても、少しは寛容になろうと心に決めた。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

去る者は追わず(さるものはおわず)

 「新しい風」 春の風が優しく街を包み込む午後、彩子はカフェの窓から外を見つめていた。東京の喧騒が、遠くから聞こえるように思えた。彼女の前には、メッセージアプリの画面が開かれたままだが、そこにある名前に指を滑らせることはない。 「もう一年か…」 彼女は小さくつぶやき、コーヒーを一口飲んだ。彼との別れからちょうど一年が経とうとしていた。付き合い始めた当初は、互いに深く愛し合い、毎日のように連絡を取り合っていた。だが、彼の仕事が忙しくなるにつれて、少しずつ二人の間には距離ができ始めた。 彼女は最初、その距離を埋めようと努力した。連絡が減っても、彼の仕事が終わるのを待ち、デートの計画を立てたり、サプライズを用意したりした。だが、次第に彼の態度は冷たくなり、最後には「もっと自分の時間が欲しい」という理由で別れを告げられた。 あの時、彩子は必死に彼を引き止めようとした。「私がもっと理解すれば」「もう少し我慢すれば、また元に戻れるはず」と信じていた。しかし、彼は去った。何の未練もないかのように、ただ静かに彼女の前から姿を消した。 それからの数ヶ月間、彩子はその痛みと向き合った。彼のことを思い出すたびに、心の中にぽっかりと空いた穴を感じた。しかし、次第に彼女は気づき始めた。彼を追いかけ続けることは、自分をさらに傷つけるだけだということに。去る者を追っても、戻ってくることはない。むしろ、その執着が自分自身を縛りつけ、前に進むことを妨げているのだと。 そうして、彼女は決断した。もう彼を追わない。彼のいない人生を、自分のものとして生きていくことを。 今日、彩子はようやくその決意を実行に移す日だ。彼の名前を削除するために、アプリを開いた。しかし、削除することが今ではそれほど大きなことに感じられなくなっていた。彼女はもう、彼に縛られていない。 「去る者は追わず…か」 彩子は小さく笑みを浮かべ、彼の名前を削除し、スマホを閉じた。その瞬間、彼女の心に新しい風が吹き込んだ。街の音が一層鮮やかに聞こえる。去っていく者には執着しない。それは、次にやってくる新しい何かを受け入れるための大切な一歩だと彼女は感じた。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

去る者は日々に疎し(さるものはひびにうとし)

 「去りゆく絆」 三年前、大学を卒業する日、健太と優斗は固い握手を交わした。二人は幼い頃からの親友で、同じ大学に進学し、何事も一緒に乗り越えてきた。卒業後、健太は地元の会社に就職し、優斗は都会の一流企業に採用された。 「どんなに離れていても、俺たちはずっと親友だよな」と優斗は言い、健太も頷いた。しかし、別れの瞬間はあっという間に訪れ、互いに新しい生活が始まった。 最初のうちは、頻繁に連絡を取り合い、互いの近況を話し合っていた。週末にはオンラインゲームを一緒に楽しんだり、たまに都内で会って飲みに行ったりすることもあった。しかし、時間が経つにつれて、徐々に連絡の頻度は減っていった。忙しい仕事、異なる環境、そして新しい人間関係が二人の間に距離を作り始めていた。 半年が過ぎ、一年が経ち、健太はふと気づいた。優斗と最後に会ったのはいつだっただろうか。LINEのトークも、何週間も未読のままだ。健太は一度連絡を取ろうと思ったが、タイミングが合わず、いつの間にか日常に流されていった。 ある日、共通の友人から、優斗が婚約したという話を聞いた。健太は驚き、そして少しだけ寂しい気持ちになった。昔なら、真っ先に自分に報告が来るはずの話題だったはずだ。それが、第三者から聞かされるという現実が、二人の関係の変化を如実に物語っていた。 健太は結局、優斗にお祝いのメッセージを送ったが、返事は簡単な「ありがとう」だけだった。かつては長い時間を共有し、互いのすべてを知っていたはずの二人が、今ではほんの数行のメッセージを交わすだけの関係になってしまった。 「去る者は日々に疎し」。健太は、そのことわざの意味を痛感した。人は誰もが時間の流れの中で変わり、新しい関係や環境に適応していく。かつての絆は確かに強かったが、今ではその絆も風化しつつあった。 それでも、健太は後悔はしていなかった。人生は続き、道は別れていくものだ。それが自然なことであり、すべての人が通る道だからだ。いつか再び会う日が来るかもしれない。その時には、また新たな形で友情を再構築できるかもしれないと、健太は静かに思った。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

触らぬ神に祟りなし(さわらぬかみにたたりなし)

 「静かなる選択」 佐藤は、職場での人間関係に常に気を遣っていた。特に同僚の田中は、何かと問題を引き起こすトラブルメーカーだった。最近では、部署内でのあるプロジェクトの進め方について、田中が強く主張し始め、周囲を巻き込んで争いを起こしていた。上司や他の同僚たちもその意見に振り回され、職場の空気はどんどん悪くなっていた。 ある日、田中は佐藤に「お前はどう思う?」と突然問いかけた。プロジェクトの進め方について賛成か反対か、明確に立場を示して欲しいというのだ。しかし、佐藤は内心困惑した。田中に対抗することは職場での立場を危うくするかもしれないし、かといって安易に賛成すると、後々の責任を負う羽目になるかもしれない。 佐藤はしばらく黙った後、冷静に「僕は特に意見がないです」と答えた。田中は一瞬驚いた顔をしたが、「ふん、まあいいさ」と吐き捨てるように言って去っていった。 周りの同僚たちは、佐藤の曖昧な態度を見て「逃げたな」と思ったかもしれない。しかし、佐藤は自分なりの信念で行動していたのだ。「触らぬ神に祟りなし」、無駄に巻き込まれることで余計なリスクを負うのは得策ではないと考えていた。確かに田中に賛成すれば一時的に安泰かもしれないが、その先に待つ問題に巻き込まれるのは避けたかった。 その後、プロジェクトは田中の提案通りに進められたが、結果は大失敗に終わった。田中は責任を追及され、上司から厳しい叱責を受けた。周りも田中に同調していた者たちが批判され、職場の空気はさらに悪化していった。 佐藤はその混乱を静かに見守っていた。自分が巻き込まれなかったことに安堵し、改めて「触らぬ神に祟りなし」の教訓をかみしめたのだった。   ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

三顧の礼(さんこのれい)

 「再びのお願い」 小さな町工場を経営している拓也は、経営の立て直しに頭を抱えていた。資金繰りは厳しく、従業員の給料もままならない状況だった。かつては町で評判の工場だったが、時代の変化とともに注文は減り、立ち行かなくなっていた。 ある日、拓也は知人からある噂を聞いた。「経営コンサルタントの山本は、数多くの企業を救った天才だ」という話だった。最初は半信半疑だったが、背に腹は代えられないと考え、山本に連絡を取ることにした。 しかし、山本は忙しいと言って、なかなか会ってくれなかった。やむなく、拓也は直接山本のオフィスに足を運び、会う機会を得ようとしたが、やはり断られた。普通ならここで諦めるところだが、拓也は工場を再興するためならと、もう一度挑戦することを決意した。 二度目の訪問も、結果は同じだった。山本は多忙を理由に、依頼を引き受けてくれなかった。だが、拓也の心は折れなかった。彼は諦めず、さらにもう一度だけ挑戦することにした。 三度目の訪問。今回は、拓也はこれまでの苦境や工場への熱い思いを全て伝えた。「この工場は、父の代から続いています。私にとって、家族そのものなんです。どうか力を貸してください」と、涙ながらに語る拓也の姿に、山本はついに心を動かされた。 「分かりました。あなたの熱意に打たれました。協力しましょう。」 こうして山本は、拓也の工場の経営再建に乗り出した。コンサルティングが始まると、工場の無駄を徹底的に削減し、新しいビジネスモデルを導入することで、徐々に工場は回復し始めた。数ヶ月後には、町で評判の工場へと再び成長を遂げた。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

三十六計逃げるに如かず(さんじゅうろっけいにげるにしかず)

 「最も賢い策」 翔太は子供のころから喧嘩が強く、地元の誰もが彼を恐れていた。どんなに相手が強そうでも、翔太は絶対に負けなかったし、その自信もあった。友人たちも、彼を頼りにしていた。どんなトラブルがあっても、翔太がいればなんとかなる。そんな風に、彼は仲間のリーダー的存在として振る舞っていた。 しかし、ある日、翔太の元に知らせが届いた。隣町の不良グループが彼に挑戦状を送ってきたのだ。そのグループのリーダー、誠一は噂によると非常に危険で、彼の手にかかった者は皆大怪我をしているという。 「俺が相手に負けるわけがない」と、翔太は強がりながらも、内心では少し不安を感じていた。それでも、自分のプライドと、周りの期待があったため、挑戦を受けるしかないと思い込んでいた。 対決の日、町の広場には大勢の見物人が集まり、緊張感が漂っていた。誠一が現れた瞬間、その場の空気は一変した。彼の体格は翔太よりも大きく、鋭い眼光が人を圧倒するようだった。翔太は誠一の姿を見て、初めて「これは勝てないかもしれない」と感じた。 戦いが始まる直前、翔太は冷静に自分の状況を考えた。自分が無理に戦って、重傷を負ったり、仲間に迷惑をかけるのは避けたい。それならば、この場を離れることが一番の策ではないか。 「逃げるのか?」仲間たちは驚いていたが、翔太は毅然とした表情で言った。 「三十六計、逃げるに如かずって言うだろ。今は戦う時じゃないんだ。勝てない戦いに挑むより、次の機会を待つ方が賢いさ。」 翔太はその場から背を向け、静かに去っていった。最初は周囲の人々がざわめいたが、次第にその行動の意味を理解し始めた。誠一もまた、翔太の判断力に感心し、追いかけることなく彼を見送った。 その後、翔太は自分の力だけに頼るのではなく、戦いのタイミングや状況判断が重要であることを学んだ。そして、無理に戦わず撤退することも、強さの一部だと理解するようになった。次の挑戦では、翔太は以前よりも賢明なリーダーとして、仲間たちと共に成功を収めることができた。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

山椒は小粒でもぴりりと辛い(さんしょうはこつぶでもぴりりとからい)

 「小さな挑戦者」 町外れの学校に通う小学5年生の美咲は、いつもクラスで目立たない存在だった。背が低く、声も小さいため、発言するときも誰も気に留めないことが多かった。しかし、美咲には一つ、誰にも負けたくないことがあった。それは、毎年行われる学校の短距離走大会だった。 体育の時間、クラスメイトたちは大きな声で談笑しながら走り回っていたが、美咲は黙々と一人で走る練習を続けていた。背が低いせいで、他の子より足の歩幅が狭い。美咲は自分がいつも最下位だったことに悔しさを感じていたが、その悔しさをバネに、家でも毎日自主的にランニングを重ねていた。 「小さくても、負けたくないんだ」と美咲は心に誓っていた。 そして、待ちに待った大会当日。学校のグラウンドには大勢の生徒たちが集まり、応援の声が響いていた。美咲のクラスでも、足が速いと評判の男子たちが「俺が一番だ」と自信満々に話していた。 「美咲、お前は最後だな、どうせ」とからかう声も聞こえてきたが、美咲は気にしなかった。彼女は自分の努力を信じ、勝つことを目指していた。 スタートの合図が鳴り、美咲は一斉に走り出した。最初はやはり、背の高いクラスメイトたちが前に出た。しかし、美咲は自分のペースを崩さず、全力で地面を蹴り続けた。少しずつ、彼女は前の選手に追いついていく。 最後の直線に入ると、クラスの中で最も速いとされる男子が先頭に立っていたが、美咲はその背中をじりじりと追い詰めた。そして、ゴール直前で彼を抜き去り、先頭でゴールラインを駆け抜けた。 その瞬間、観客席はどよめきと拍手に包まれた。クラスメイトも驚きの表情を浮かべ、誰もが信じられない様子だった。美咲は息を切らしながらも、満足そうに微笑んだ。 「すごい、あの小さな美咲が…」と、周囲の声が聞こえてくる。 その日の表彰式で、美咲は金メダルを首にかけられた。背が低く、目立たない存在だった彼女がクラスの誰よりも速く走ったことに、全員が驚かされていた。 「山椒は小粒でもぴりりと辛い」と、体育の先生が笑いながら美咲に声をかけた。「小さくても、お前の努力と根性は本当に素晴らしかったよ。これからも自分を信じて、どんな挑戦にも向かっていけ!」 美咲は誇らしげに微笑み、その言葉を胸に刻んだ。彼女は、自分の小ささを恥じることなく、むしろその特性を武器にして、どんなことにも挑戦し続けることを決意した...

三人寄れば文殊の知恵(さんにんよればもんじゅのちえ)

 「小さな会議室」 地方の小さな町工場で働く一ノ瀬、村田、佐々木の三人は、ある日、社長から突然呼び出された。新製品の開発が滞っているため、チームでアイデアを出してほしいというのだ。三人はお互いに顔を見合わせたが、特にこれといったアイデアもないまま、会議室に集まった。 「いや、俺たちにそんな大事な役割を任せても、何も出てこないよな」と、一ノ瀬が苦笑いしながら言った。村田も同意して、「そうだな。技術的な知識もないし、経営のことも分からない」とため息をついた。 佐々木は、机に広げた白紙のノートを見つめながら、「でも、社長が頼んでくれたんだし、なんとか頑張ってみよう」と、前向きに提案した。 最初のうちは、三人とも戸惑い、話はなかなか進まなかった。どこから手をつければいいのか、何を考えればいいのかも分からない。けれども、雑談の中でふとした瞬間に、佐々木が言った。「そういえば、俺たちの工場で余ってる材料があったよな。あれ、何かに使えないかな?」 「それなら、リサイクル製品とか作れるかもな」と、一ノ瀬が続けた。 「うん、それなら環境に優しいし、売り込みやすいかも。でも、何を作ればいいんだろう?」村田が首をかしげる。 その瞬間、三人は一斉に顔を見合わせた。「再利用できる簡単な日用品、例えば…エコバッグとか、ポーチとかはどうだ?」と佐々木が提案すると、他の二人も頷いた。 「それなら、今まで廃棄していた素材を有効活用できるし、コストも抑えられるな!」一ノ瀬は興奮気味に言い、村田も「これなら、環境への配慮もアピールできるし、うちの工場の新たな強みになるかも」と同意した。 その後、三人はそれぞれの強みを活かして、デザイン、材料の調達、製造工程の効率化を考え始めた。アイデアが次々と出てきて、会議室は活気に満ちていった。 数週間後、三人が考えたエコバッグの試作品が完成した。これまでの製品にはなかった新しい視点が取り入れられ、リサイクル素材を使ったことで、コスト削減と環境配慮を両立した商品となった。 社長は驚き、笑顔で三人にこう言った。「まさか、こんなに素晴らしいアイデアが出てくるとは思わなかった。やっぱり、三人寄れば文殊の知恵だな!」 三人は照れ笑いを浮かべながらも、互いに肩を叩き合った。自分たちが信じられないほど、良いアイデアが出たことに驚いていたが、何よりもチームワークの力を実感し...

鹿を逐う者は山を見ず(しかをおうものはやまをみず)

 「焦点の先」 佐藤は新進気鋭の若手営業マンとして、会社で頭角を現していた。彼は常に数字を追いかけ、目の前の売り上げ目標を達成するために全力を注いでいた。今月のノルマもあと少しで達成できる。そう思うと、彼の足取りは自然と速くなり、呼吸も高鳴る。 その日、佐藤は大手クライアントとの契約をまとめるため、地方の工場まで出張に出かけた。契約が成立すれば、今期のトップ営業マンとして表彰されるだろう。彼はそのことばかりを考えていた。成功を手にした自分の姿、同僚たちの賞賛、そして昇進への道が開かれる瞬間――。 クライアントとの打ち合わせはスムーズに進んでいた。しかし、彼はあまりに契約成立に焦りすぎて、相手の懸念や要望を聞き流していた。彼の目には「契約書にサインをもらう」ことしか映っていなかったのだ。 「契約を急がず、もう少し考えさせてほしい」とクライアントが言ったとき、佐藤は焦燥感に駆られた。今月中に結果を出さなければ、全てが水の泡になってしまう。彼はさらに契約を迫り、相手の話を遮ってしまった。 「契約を急ぐあまり、こちらの事情を全く聞いてもらえないようですね。」クライアントは眉をひそめ、不機嫌そうに言った。 その言葉に、佐藤は初めて自分の焦りが相手に伝わってしまったことを悟った。だが、時すでに遅し。クライアントは契約を見直すと言い残し、会議はあっけなく終わった。 帰り道、佐藤は重い気持ちで車を走らせていた。契約を急ぐあまり、大事なことを見落としていた自分に気づいたのだ。目の前の「鹿」を追いかけるあまり、広い「山」――つまり、全体の関係性や信頼の構築を見失っていたのだ。 会社に戻ると、今月の営業成績はぎりぎりノルマに届かなかった。トップ営業マンの称号も、昇進の機会も、すべてが遠のいてしまった。しかし、佐藤はそのことを不思議と悔やむ気持ちはなかった。むしろ、失ったのは目の前のチャンスだけでなく、もっと大きな視野や信頼だったことに気づいたからだ。 「鹿を逐う者は山を見ず――これからは、もっと広く周りを見るようにしよう。」 佐藤はその日から、売り上げや数字だけではなく、クライアントとの長期的な関係を大切にすることを心に決めた。そして少しずつ、彼の評価はまた上がり始めた。次に目標を追うとき、彼は全体の山を見ながら、バランスの取れた営業を心がけるようになっていった。 ことわざから小...

鹿を指して馬と為す(しかをさしてうまとなす)

 「真実の姿」 大企業に勤める高橋は、部長昇進を目前に控えていた。彼は自らの成果を強調し、上司や同僚たちの評価を得てきた。だが、その裏には隠された策略があった。実は、高橋は他人のアイデアや成果を自分のものとして報告していたのだ。 その日、会議室では新しいプロジェクトの発表が行われていた。高橋は自信満々に、チームの功績を自分一人の手柄のように語り、さらに具体的な数字や成果を誇張して伝えた。部下たちは心の中で不満を抱きながらも、誰も口に出せなかった。 「今回の成功は、私の戦略が功を奏した結果です。皆さんの協力にも感謝していますが、やはりリーダーシップが重要ですね。」 高橋は満面の笑みで話し続け、上司たちも頷いていた。彼の言葉は、鹿を指して馬と言わんばかりの虚偽に満ちていた。しかし、その場にいる誰もがそれに異議を唱えられず、彼の偽りのリーダーシップを認めるしかなかった。 その一方で、プロジェクトの真の立役者であった中村は、言葉を飲み込んでいた。彼は長い間、高橋にアイデアを盗まれ、自分の貢献を無視され続けてきた。しかし、会社の上下関係の中で反論する勇気を持てず、ただ沈黙を守っていた。 会議が終わり、オフィスに戻った中村は一人考え込んでいた。高橋のような嘘がまかり通る現実に苛立ちながらも、自分がどうすべきかを迷っていた。しかし、そんな彼に思わぬチャンスが訪れる。 ある日、社内で極秘プロジェクトのメンバーに選ばれることになった。そこでは、会社の未来を左右する大きな意思決定が行われる予定だった。中村はついに、自分の実力を証明する機会が訪れたと感じた。 プロジェクトが進む中、中村は懸命に働き、自分の意見を積極的に出すようになった。そして、プロジェクトが成功した時、今度は彼が主導したと誰もが認める結果となった。真の実力が評価されたのだ。 その報告会では、今度は高橋ではなく、中村が主役だった。部屋中が彼の努力を称賛し、高橋のような偽りの手柄は完全に消え去っていた。 「鹿を指して馬と為す者は、いつか真実の前に敗れる。」中村はそう心の中で呟きながら、自分の誇りを取り戻した。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

地獄で仏に会う(じごくでほとけにあう)

 「絶望の果てに」 優子は人生のどん底にいた。勤めていた会社が倒産し、失業した上に、家族との関係も冷え切っていた。友人に相談しようとしても、みんな忙しそうで相手にしてもらえず、どこにも逃げ場がないように感じていた。 貯金は底をつき、家賃の支払いにも困る日々。心の中に湧き上がるのは、焦りと絶望だけだった。そんなある日、優子は雨の中、重い足取りで街をさまよっていた。傘を持たずにずぶ濡れになった彼女は、もう何もかもがどうでもいいと感じていた。 「このまま消えてしまいたい……」 ふと、通りの片隅に小さな古本屋が目に入った。優子は雨宿りのつもりで中に入ることにした。薄暗い店内には、埃をかぶった本が静かに並んでいる。懐かしい香りに包まれながら、彼女は無意識に一冊の本に手を伸ばした。 それは、彼女が子供の頃に母親がよく読んでくれた絵本だった。「この絵本、まだ残ってたんだ……」優子は本を手に取り、懐かしい記憶が蘇るのを感じた。母親が優しく絵本を読んでくれた時の安心感、ぬくもり――それは、彼女が忘れていた希望の光だった。 その時、店主が優しく声をかけてきた。「その本、いい本だよ。昔はたくさんの子供たちがこれを読んで、笑顔になったんだ。」 優子は思わず涙がこぼれた。「こんな時に、こんな懐かしいものに出会うなんて……まるで地獄で仏に会った気分です。」 店主は微笑みながら、優子に温かいお茶を差し出した。「人生には、思わぬ救いが待っているものだよ。今はつらいかもしれないけど、この先には必ずいいことがあるからね。」 その言葉に、優子は久しぶりに心の底から温かさを感じた。絶望の中にいた彼女は、思いもよらない場所で小さな救いに出会ったのだ。地獄のような日々の中で、彼女はこの古本屋という「仏」に出会ったのだった。 それから数日後、彼女は再び古本屋を訪れ、店主と話すことが日課になった。彼女の心には少しずつ希望が戻り、少しずつ前に進む力を取り戻していった。古本屋での出会いは、絶望から立ち上がるための最初の一歩となった。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

肉食った報い(ししくったむくい)

「欲望の代償」 深夜のネオンが光る繁華街に、敏腕ビジネスマンとして名を馳せる若林誠一が一人、バーのカウンターに腰を下ろしていた。彼は若くして大手企業の役員となり、金も名声も手に入れた成功者だった。しかし、彼には一つの欠点があった――欲望に忠実すぎることだ。 誠一は、仕事でも私生活でも、自分の欲望を満たすために手段を選ばなかった。手に入れたいものがあれば、どんな犠牲を払ってでもそれを掴み取った。今日もまた、豪華なディナーで肉料理を食べ過ぎ、彼の食欲は止まることを知らなかった。 バーのバーテンダーが静かに声をかけた。「若林さん、今日は少しお顔が疲れていらっしゃるようですね。」 誠一は軽く笑い飛ばした。「まあ、少し仕事が忙しくてな。でも、金があれば何でも解決するさ。」 彼は自分の成功に満足し、さらに高い地位と富を求め続けた。しかし、そんな誠一に、ある日突然転機が訪れる。 会社での業績が急激に悪化し、彼のリーダーシップが批判され始めたのだ。これまで自分の欲望のままに進んできた結果、誠一は周囲の信頼を失い、部下たちは次々と辞めていった。彼が手に入れた富と名声は、次第に崩れ去っていくようだった。 誠一は焦りを感じながらも、どうしてこんなことになったのか理解できなかった。彼はずっと、自分の欲望を満たし続ければ成功が続くと信じていた。しかし、実際にはその過度な欲望が周囲の人々を遠ざけ、自分を孤立させていたのだ。 ある夜、彼はふと「肉食った報い」という言葉を思い出した。昔、彼の祖父がよく言っていた言葉だ。欲望にまみれた生活の果てには、必ず報いがある――祖父の警告を無視してきた結果、誠一は今、その報いを受けていたのだ。 「欲望に溺れてきた報いか……」誠一は静かに呟いた。 その夜、彼は豪華な生活を捨て、これまでの自分の行いを見つめ直すことを決意した。誠一は欲望の代償を重く受け止め、謙虚さと周囲との信頼を取り戻すための新しい人生を歩み始めた。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

事実は小説よりも奇なり(じじつはしょうせつよりもきなり)

 「奇跡の遭遇」 山田夏美は、日々の生活に飽き飽きしていた。都会のオフィスでルーチンワークに追われる日々。面白みのない上司に、何も変わらない日常。彼女はどこかで、人生に何か特別な出来事が起こるはずだと淡い期待を抱いていたが、それも徐々に薄れていた。 「人生って、ただの繰り返しなのかしら?」と彼女は溜息をつきながら、いつものカフェでコーヒーをすする。小説や映画のようなドラマチックな出来事が自分の身に起こるわけがない、と決め込んでいた。 その日も特別なことは何もないはずだった。オフィスでの仕事を終え、夏美は帰りの電車に乗り込んだ。混雑した車内で立っていると、ふと隣の席に座っている男性に目が留まった。その顔に見覚えがあった。だが、すぐに頭の中で否定した。 「まさか、そんなわけない。あの人はテレビに出てる俳優さんじゃない…?」 男性は帽子を深く被っていたが、時折スマホを操作する姿や横顔が、確かにどこかで見た有名人に似ている。彼女は好奇心に駆られ、何度も彼の顔を確認しようとしたが、あまりにも信じがたくて、話しかける勇気が出なかった。 その時、急に電車がガタンと大きく揺れ、彼女はバランスを崩してその男性の腕に倒れ込んでしまった。 「す、すみません!」 顔を真っ赤にして謝る夏美に、男性はやさしく微笑みかけた。「大丈夫ですよ。」その声を聞いた瞬間、夏美は確信した。その声は、彼女が大好きなドラマに出演している俳優、桐生颯太の声だったのだ。 「本当にあなた、桐生さんですか?」彼女は勇気を振り絞って尋ねた。 桐生は少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに静かに頷いた。「ええ、そうです。でも、ここでは内緒にしてくださいね。」と、彼はウインクをして微笑んだ。 夏美は驚愕した。あの有名な俳優とこんな風に電車で出会い、しかも会話をするなんて、まるで映画のワンシーンのようだった。 「事実は小説よりも奇なり、とはこのことね…」彼女は心の中で呟いた。こんな非現実的な出来事が、自分の人生に本当に起こるなんて。 その後、駅に到着し、桐生は静かに車内を後にしたが、夏美の心にはその日の出来事がずっと鮮明に刻まれた。いつもの退屈な日常が、突然ドラマチックに変わった瞬間。夏美はこの出会いを、ずっと忘れないだろうと思った。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

獅子の子落とし(ししのこおとし)

 「獅子の子落とし」 山奥の村に、名高い鍛冶職人の男、五郎が住んでいた。彼の技術は村中に知れ渡り、どんなに頑丈な刀や農具も彼の手にかかれば、見違えるように精巧なものに生まれ変わると評判だった。五郎には一人息子の修がいたが、彼はまだ職人としての道を歩む覚悟が定まらず、父の期待に応えられずにいた。 ある日、五郎は修に向かって厳しい声を出した。「お前もいい加減、鍛冶の技術を身につけなければならん。今日から修行を本格的に始めるぞ。」 修は重い気持ちで頷いたものの、内心では父の期待に応えられるかどうか、不安でいっぱいだった。鍛冶場の仕事は厳しく、熱い炉の前で重い鉄を打ち続ける日々が続く。しかし、修はすぐに心が折れそうになり、何度も逃げ出そうとした。 そんなある晩、修は父に「もう無理だよ、父さん。俺には才能がない。こんなに厳しい修行、耐えられない」と打ち明けた。 五郎は黙って聞いていたが、やがて深いため息をついた。「修、お前はまだわかっていない。強くなるためには、試練を乗り越えなければならないのだ。」 そして、五郎はある古い話を語り始めた。「昔、獅子は自分の子供を崖から落とすと言われている。子獅子は崖の底へ転げ落ちるが、そこで這い上がってこなければ生き延びることはできない。つまり、試練を乗り越えることができる子だけが、強くたくましい獅子となるのだ。」 修はその話に驚きながらも、心の中で反発した。「父さん、それはあまりにも厳しすぎるよ。そんなことをするなんて、無茶だ。」 五郎は静かに修を見つめた。「そうかもしれん。だが、お前が本当の強さを身につけるには、自分を限界まで追い込む必要がある。楽な道を選んでは強くなれない。だから私はお前に、厳しい修行を課しているんだ。逃げるか、立ち向かうかはお前次第だ。」 翌日、修は再び鍛冶場に立ち、父の言葉を思い出しながら鉄を打ち始めた。以前と同じように重く感じた鉄も、少しずつ慣れてきた。何度も失敗を繰り返しながらも、修は父の背中を見て学び、自分の手で何かを作り上げる喜びを少しずつ感じ始めた。 数ヶ月後、修はついに一本の刀を完成させた。それはまだ父の作品ほど完璧ではなかったが、修はその出来栄えに誇りを感じた。五郎はその刀を見て、無言で頷き、修に微笑んだ。 「よくやった、修。この刀は、お前が崖から這い上がってきた証だ。」 修はその言葉を聞き、初...

死児の齢を数える(しじのよわいをかぞえる)

 「死児の齢を数える」 春が訪れ、桜が咲き乱れる中、広美は古びたアルバムをめくりながら、静かに涙を流していた。アルバムの中には、かつての彼女の息子、翔太の笑顔が映っている。幼い頃から体が弱かった翔太は、わずか6歳でこの世を去った。それから10年が経つが、広美は毎年この季節になると彼を思い出し、胸を締めつけられるような悲しみが再び押し寄せてくる。 「もし、あの子が生きていたら、今頃は高校生かしら」と広美はつぶやく。翔太が生きていればどんな青年に成長していただろうかと、考えずにはいられなかった。彼女はふと、亡くなった息子の未来を想像し、手元のアルバムの写真にすがりつくように目を落とす。 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。広美の親友、美奈子が訪ねてきた。 「広美、久しぶり。元気にしてる?」美奈子は明るく声をかけたが、広美の目の赤さに気づき、表情を曇らせた。「また翔太くんのことを思い出していたのね。」 広美は静かに頷いた。「毎年この時期になると、どうしても思い出してしまうの。あの子が生きていたら、今どうしているんだろうって、考えずにはいられなくて。」 美奈子は少し間を置いてから、広美の隣に座り、手をそっと握った。「広美、わかるよ。その気持ち。でも、翔太くんはもう…」 「わかってる。わかってるけど、考えてしまうの。もしも彼が元気に育っていたら…って、つい思い描いてしまうのよ。」 美奈子は静かに息を吐いた。そして、しばらくの沈黙の後に口を開いた。「広美、今のあなたは『死児の齢を数えている』んだよ。」 「死児の齢を数える…?」広美は目を見開いた。 「そう。もうこの世にいない人のことを、あれこれと考えても、その人は戻ってこない。翔太くんがもし生きていたらって思う気持ちは痛いほどわかるけど、現実に目を向けることも大切だよ。翔太くんの思い出を大事にすることはいいけど、過去に縛られて生きるのは、あの子もきっと望んでいないと思う。」 広美はその言葉を聞いて、しばらく沈黙した。心の中で何かが揺れ動くのを感じた。確かに、翔太がいなくなった悲しみは消えないが、それでも美奈子の言葉には一理あると感じた。 「過去を思い続けることは、前に進むのを止めてしまうのかもしれない…」広美は小さな声でつぶやいた。 美奈子は優しく微笑んだ。「そう。翔太くんがいないことは悲しいけど、今を生きること、そして翔...

士族の商法(しぞくのしょうほう)

 「士族の商法」 明治の世、かつては名家の侍だった佐々木家も、時代の流れに逆らえず士族の地位を失った。刀を差していた頃は、家の威厳があり、誰もが一目置いたが、廃刀令とともにその力は消え、侍たちは新たな生き方を探さざるを得なかった。 「これからは商いだ」と、佐々木直次郎は意を決して商売を始めることにした。だが、侍だった彼には商いの経験などなく、知識もなかった。しかし、名門の誇りを胸に「自分ならできるはずだ」と自信を持ち、米問屋を開業することにした。 「直次郎さん、侍が商いをやるなんて珍しいねぇ」と、近所の商人たちは噂していた。 直次郎はまず、仕入れの量を見極められず、大量の米を買い込んだ。「米は絶対に売れるものだ。余ることはない」と高をくくっていた。しかし、米の価格は市場の動きによって大きく変わることを彼は知らなかった。仕入れた米が高騰するかと思いきや、急激に価格が下がり、直次郎はその損失を抱えることになった。 「何故だ、何故うまくいかない!」と、直次郎は悩んだ。これまでの人生、彼は武士道を信じ、正直と信義を重んじてきた。しかし、商いの世界ではそれだけでは通用しなかった。競争、価格の変動、客の心理――それらは侍時代には存在しなかった戦場だった。 さらに、彼は商いにおける人付き合いの重要さにも気づいていなかった。かつての威厳と自負心が災いし、周囲の商人たちと打ち解けることができなかったのだ。「侍が商売をするなど、上手くいくわけがない」と陰口を叩かれることも増えた。 ある日、彼は商売の心得を持つ友人である山田に相談した。「なぜ俺はうまくいかないんだ。俺は士族だ。名家の出だ。どうして商売というものは、こんなにも難しいのか。」 山田は静かに微笑んだ。「直次郎、武士の誇りは大事だが、商いには別の規律がある。お前はまだ侍の心で商売をしようとしている。しかし、商売は生き残るための戦だ。柔軟に動き、状況を読む力が求められる。士族の誇りを持つことは大切だが、それだけでは商いはうまくいかないんだ。」 直次郎は深くうなだれた。山田の言葉は胸に突き刺さった。彼はようやく、自分が持っていた侍のプライドが逆に足枷となり、商売の世界に順応できていないことに気付いた。 その後、彼は侍のプライドを捨て、商売の勉強を一から始めることを決意した。武士のように正直であることも大切だが、商売には柔軟さ...

七歩の才(しちほのさい)

 「七歩の才」 魏の国では、新たに王位を継いだ曹丕が、国内の重臣や詩人を招いて盛大な宴を開いていた。宴が進む中で、賓客たちは酒を酌み交わし、詩を詠むことで互いの才能を競い合っていた。曹丕は詩に深い興味を持ち、特に即興で詩を詠む技量を高く評価していた。 その日、曹丕はふと弟の曹植を思い出した。曹植はかつて「七歩の才」と称されるほどの詩の才を持ち、たった七歩歩く間に見事な詩を作り上げることで知られていた。しかし、二人の間にはいつしか亀裂が生じ、曹植は遠ざけられていた。 「弟を呼び戻せ」と曹丕は命じた。重臣たちは驚きながらも、王の命には逆らえず、使者が曹植を呼びに向かった。 やがて曹植が宴の席に姿を現した。彼はかつての栄光を失い、やや疲れた様子だったが、その目にはまだ鋭い知性が宿っていた。 「久しいな、曹植」と曹丕は微笑んだ。「お前の詩の才を久しく見ていない。今日、ここで七歩の間に詩を作ってみせよ。もしできなければ、重罪とする。」 曹植は一瞬目を閉じ、深呼吸をした。兄の試練は苛酷であるが、逃れる術はない。彼はゆっくりと歩き始めた。七歩。たった七歩の間に詩を完成させなければならない。 その短い瞬間、曹植の心には過去の兄弟愛や今の確執が去来した。やがて彼は七歩目に到達し、口を開いた。 「豆を煮るに豆殻を燃やし、 釜中に豆は泣きて云う。 生まれしは同じ根にして、 相煎ることを何ぞ急ぐ。」 その詩は兄弟の争いを豆と豆殻に例えたものだった。彼は自分と曹丕が同じ家系から生まれたのに、互いに争うことの無意味さを訴えていた。 曹丕はその詩を聞いてしばし黙考した。会場は静まり返り、誰もが息を飲んでいた。やがて、曹丕はゆっくりと立ち上がり、弟の前に進んだ。 「見事だ。お前の才は衰えていない」と、彼は静かに言った。「今日はここまでとしよう。」 曹植は深く頭を下げ、宴の場を後にした。彼の心中には複雑な感情が渦巻いていたが、詩によって自らの命を繋ぎとめたことは確かだった。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方

死人に口なし(しにんにくちなし)

「死人に口なし」 町外れの静かな住宅街にある、古い邸宅「森山家」では、一人の女性が亡くなった。彼女の名前は森山静子。年老いた未亡人で、地域でも評判のしっかり者だった。 彼女が亡くなる少し前、町では不穏な噂が流れていた。静子が遺産を巡って息子たちと争っていたというものだ。森山家は代々続く名家で、土地や財産は相当なものだった。だが、静子には二人の息子がおり、どちらが財産を相続するかで争いが続いていた。 静子が亡くなった夜、息子たち—長男の隆一と次男の弘樹は、家の中で対峙していた。隆一は弁護士を同伴し、遺言書を確認しようとしていた。 「お母さんは私に全財産を譲ると言っていたんだ。遺言書にもそう書かれているはずだ。」隆一は自信たっぷりに言った。 弘樹は冷たい目で兄を見つめ、「そんなこと、信じられるか? 母さんは僕にも何も言っていなかった。お前が遺言書を捏造したんじゃないのか?」 その場には隆一の弁護士と家政婦の佐藤もいた。家政婦は、静子の死の直前まで彼女の世話をしていた人物だった。 弁護士が遺言書を開き、隆一に有利な内容が記されているのを確認した。しかし、弘樹は納得せず、母親の死に疑念を抱いていた。 「お前、母さんが病気で弱っているのを見て、何か手を加えたんじゃないのか? 母さんが亡くなったタイミングがどうも怪しい。」 隆一は顔を曇らせ、「馬鹿を言うな。母さんは病気で亡くなったんだ。証拠も何もない。死人に口なしだ。」 その言葉に、弘樹は強く拳を握りしめたが、どうにもできなかった。亡くなった母親はもう何も言えない。もし不正があったとしても、彼女が証言できない以上、真実は闇に葬られてしまう。 その後、隆一は静かに遺産を受け取り、弘樹は町を去ることにした。誰もが、この事件の真相を知ることはなかった。 数年後、町に戻ってきた弘樹は、森山家の家政婦だった佐藤と偶然出会った。彼女は隆一に雇われ、いまや静かな生活を送っている。だが、その瞳には何か秘密を抱えたような光が宿っていた。 「佐藤さん、あの日、母さんが亡くなった夜、何があったのか、本当のところを教えてくれませんか?」 佐藤は一瞬ためらったが、静かに言った。「死人に口なし、ですわ。」 彼女のその言葉には、何か重い真実が隠されているようだったが、弘樹はそれ以上問い詰めることができなかった。 ことわざから...

死馬の骨を買う(しばのほねをかう)

 「死馬の骨を買う」 地方の小さな町で、代々続く古書店「星川書房」の若き店主、星川悠介は、その日も店の片隅で埃にまみれた本を整理していた。この店はかつて祖父の代には繁盛していたが、時代の流れとともに訪れる客は少なくなり、いまや廃業寸前だった。 ある日、見知らぬ中年の男性が店に入ってきた。ヨレたコートを羽織り、古ぼけたバッグを持っている。 「おい、店主さん、ちょっと見てほしいものがあるんだ。」 悠介は半信半疑で応じた。「どうぞ、ご覧ください。」 その男はバッグから古びた一冊の本を取り出し、テーブルにそっと置いた。表紙は擦り切れ、文字はほとんど読めなくなっていた。 「これは……ずいぶん古い本ですね。」悠介は驚きつつ、ページをめくった。だが、内容はよくある歴史の解説本で、特に貴重なものには見えなかった。 「これは価値のある本かもしれないが、正直なところ、今すぐには買い手がつかないと思います。」悠介は正直に答えた。 男はにやりと笑った。「そうだろうな。だが、君はどうする? 無価値に見えるこの本、買ってみないか?」 悠介は迷った。店の経営は厳しく、新たな仕入れに余裕はなかった。だが、何か男の言葉に引っかかるものを感じた。 「いくらですか?」 男は意外にも安価な金額を提示した。悠介は一瞬考えた後、その本を買うことを決めた。 数日後、悠介の店を訪れる客は変わらぬままだった。あの本も棚の奥にひっそりと置かれていた。買ったことを後悔し始めたころ、突然、町の有名な学者が店に訪れた。 「星川書房の店主さん、あの本、ここにあると聞いて来ました。」 悠介は驚いた。「あの本ですか?」 学者は嬉しそうに頷いた。「あれは失われたとされていた貴重な初版の資料なんです。ぜひ見せてもらえませんか?」 悠介は慌てて本を取り出した。学者はその場で高額な値をつけ、その本を買い取っていった。思いがけない出来事に悠介は驚きを隠せなかった。 後日、あの中年の男が再び店に訪れた。「どうだい? あの本、役に立っただろう?」 悠介は感謝の言葉を述べた。「あなたのおかげで、この店は救われました。どうしてあんな本を持っていたんですか?」 男はにやりと笑った。「死馬の骨を買うという話を知っているか? 価値のないものだと思われても、それを大切にすることで、信頼や利益が生まれることがあるんだよ。」 ことわざから小説を執筆
...

四面楚歌(しめんそか)

 「四面楚歌」 夜は深まるにつれ、冷たい風が吹きすさび、ビルの窓が微かに揺れていた。新興ベンチャー企業「テクノフュージョン」の会議室で、CEOの高橋は一人、苦渋に満ちた表情で机に突っ伏していた。 数か月前までは、同僚や投資家たちから「未来のリーダー」と称賛されていた彼だったが、いまやその状況は一変していた。急成長を目指し、リスクの高い事業に手を出したことが裏目に出て、資金繰りが行き詰まり、社員たちの信頼も崩れ始めていた。 その夜、緊急取締役会が行われた。投資家たちは次々と厳しい言葉を浴びせた。 「高橋さん、あなたの判断ミスがこの状況を招いたんだ。どう責任を取るつもりだ?」 「もう支援はできない。これ以上、無駄な資金投入はできないよ。」 同僚であり、かつては親しい仲だったCOOの中村も、冷たい目を向けていた。「高橋、もう引き際だ。君はこの会社を救えない。」 高橋は深くため息をついた。かつて自分のアイデアに賛同し、共に未来を描いた仲間たちからも、今は見放されている。その場にいる誰もが敵のように感じられた。 「四面楚歌だな……」高橋は心の中でつぶやいた。どこを向いても、味方は一人もいない。 「今のままでは、会社は破産する。君が辞任することで、少しでも信頼を取り戻せるかもしれない。これは君のためでもあるんだ。」中村の声が現実に引き戻した。 高橋は静かに立ち上がり、会議室を後にした。廊下に出ると、遠くに夜の街が広がっていた。会社が追い詰められている状況と、彼自身が孤立無援であることが重なり、胸に重いものがのしかかる。 だが、ビルの窓越しに見える灯りを見つめながら、ふと彼はあることに気づいた。かつて自分がこの会社を立ち上げた時も、周囲には誰もいなかった。それでも、自分一人の力でここまで来たのだと。 「周りがどう言おうと、俺はまだ終わっちゃいない。」 高橋は静かに決意を固め、歩き出した。四面楚歌の状況にあることは変わらないが、彼の心には再び火が灯っていた。もう一度、全てをやり直し、ここから這い上がるための計画を練り始めたのだ。 ことわざから小説を執筆
#田記正規 #読み方